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東京国際文芸フェスティバルレポート(後半その②) 3月5日 スティーブ・エリクソン×古川日出男

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ついに最終回を迎えます文芸フェスレポート。長かったですね(他人事)。さて、今回は3月5日、東大で行われた講演会の第二部、スティーブ・エリクソン×古川日出男の対談です。司会は第一部と同様、柴田元幸

前回に引き続きろくな写真がないのでエリクソン×イモータンジョー。この写真の意味は本文に・・・!

スティーブ・エリクソン×古川日出男

しょっぱなから圧倒されたのが、エリクソンのオーラ!!巨匠すぎます。あの眼光で射抜かれたら一瞬にして焼失します。全身から立ちのぼる巨匠オーラがやばい。エリクソンを目にした瞬間から「畏怖」という言葉が私の頭上にのしかかってきました。
(隣の島の席でエリクソンが前半のセスの話を聞いていたのですが、セスはよくあんな眼光で見つめられて平常心で耐えたな・・・私だったら壇上で盛大に吐くと思う)
ニンゲンは大いなるエネルギーを持つ生命体を畏れ敬う・・・ということで完全にエリクソンのイメージがマッドマックスのイモータンジョーで固定されました。似てるよね。V8!V8!

エリクソンはなんと19年ぶりの東京だそう。東京は『真夜中に海がやってきた』でも書いたように、様々なイマジネーションを喚起する都市、と言っていました。魔都TOKYOへようこそ。エリクソンの作品と東京は相性がいい気がするから、また東京を舞台にした作品を書いてほしいな。

・翻訳最新作『ゼロヴィル』について

2月末に日本ではエリクソンの『ゼロヴィル』が柴田元幸訳で発売されました。「映画自閉症」の主人公と様々な映画、そして現実が錯綜する・・・とのことですが、私はまだ読んでいません(すみません)。

ゼロヴィル

ゼロヴィル

 

『ゼロヴィル』は父に拒まれた男と父になろうとする男を描いた作品でもあり、旧約聖書のアブラハムとイサクの物語への反論なんだそう。

まずは古川氏の『ゼロヴィル』評から。一本の映画を何度も観ることと、千本の映画を一度ずつ観ること、それらが共有しているものが浮かび上がってくる、それは創造であり作家が行っているただひとつのこと、つまり「世界を創ること」。

そして古川日出男エリクソンそれぞれの『ゼロヴィル』朗読。途中でエリクソンと古川氏の声が交差してこれはメチャクチャカッコイイ・・・!

古川日出男の「音楽」エリクソンの「映像」

古川氏曰く、「エリクソンの作品では句読点でカット割りが変わっていく、文章と文章の間にカメラがあって、それが向きを変えて映像を映し出しているよう 」。

それに対して古川日出男作品は「句読点でビートを刻んでいる」。この表現には膝を打ちました。確かにその通りで、その時私はエリクソンの『Xのアーチ』を読んでいたのだけれど、言われてみると『Xのアーチ』でもカメラがヴーンと首を回しているような長回しの映像とモンタージュ、それがエリクソン作品の特徴でもある幻視的な文章を支えているのだなと納得。
ただし『ゼロヴィル』では映画が映像部分を担っているので、作品自体は視覚的なイメージには貢献していない、とエリクソン。「若いころはイメージがどんどん湧いてきて大変だったけれど、今は歳を重ねたこともあり、視覚的なものの代わりに触感や匂いなど、他の要素を取り入れるようにもしている」とのこと。

 司会の柴田元幸は「フォークナーの作品もクライマックスにも音が無いと言われており、劇的なシーンで無音となるエリクソン作品にも通じるものを感じる」と言っていたのだけれど、確かにエリクソン作品では音が非常に少ない。『Xのアーチ』で鳴っていた音は、私の場合は吹きすさぶ風の音。海のそばの塩気をはらんだ冷たい風、荒涼として大地に乾いた土埃を巻き起こす強い風、それが『Xのアーチ』のBGMでした。
古川日出男の作品は文章そのものが音楽のようだけれど、エリクソンの作品は「風景から音が鳴る、音はあとから湧き上がってくる」、言葉が言葉でないものを立ち上がらせる不思議。

古川氏は執筆時には必ず音楽をかけるけれど、エリクソンはほとんどかけない、かけても環境音楽のような声の入っていないもの、というのも印象的。

「『信頼できない語り手』ではなく、『信頼できない風景』というのがエリクソンの作品ではキーになっている」、この一言が核心を突きまくっておりました。

・言語化されたアメリカを描く

エリクソンは「想像力は歴史に追いつけない。個人的な経験や想像力で歴史に追いつこうとしても、どんなに脱構築しても、それを超えたものが歴史から現れてくる」と言っており、リアルを追求するためには反リアルにならざるをえない、そのスタンスがエリクソンの描く幻視的な作品を構成するひとつの要素なのだなあと。

契約、つまり言語によって出来た「国家(アメリカ)」を描き続けるエリクソンと、契約から発生したわけではなく、言語化された国家を持たない日本を描き続ける古川日出男。フォークナーと中上健次の対比も講演で言及されていましたが、それが現代文学ではエリクソン古川日出男に置き換えられるのかもしれません。

 

以上、長くなりましたが国際文芸フェスティバルのレポート、最終回でした!

国際文芸フェスでは他にも沢山色々な魅力的なイベントが行われていて、その多くが無料だったのにも驚きました。誰でも手軽にこのような質の高いイベントに参加できるのは本当に素敵。是非毎年開催して欲しいです。たのむ〜〜〜!